1956.10.30-11.30番組表
  朝日新聞大阪版朝刊・夕刊をもとに作成しました。本免許第一声から新聞に予告されたサービス放送期間までの全番組です。


1956.12.1-12.16番組表(開局直後)
  朝日新聞大阪版朝刊・夕刊をもとに作成。


1958.12.1-12.7番組表(開局二周年)
  産経新聞大阪版朝刊をもとに作成。(2004.3.10作成)


全史編纂中
  
「大阪テレビ放送」研究会

<<「OTV・大阪テレビ放送」全記録編纂のよびかけ>>

 大阪の映像文化発祥の一点が、まもなく幻の中に消え去ろうとしています。
 資料はおろか、証人の数も少なくなっています。
 全国に大きな影響を持つ大阪のテレビ文化は、NHK大阪テレビジョンと、在阪資本による民間テレビ局「大阪テレビ放送」から始まります。
 OTVこと「大阪テレビ放送」は、東京で予想以上のビジネス的成功を得た日本テレビ=讀賣新聞社の関西進出に立ち向かうため、朝日新聞を母体とする朝日放送(ABC)と、毎日新聞を母体とする新日本放送(NJB)が合同で設立したテレビ局で、一九五六年十二月一日正午、服部良一作曲のテーマ音楽とともに本放送を開始した、と記述されています。
 合弁とは言っても、合弁色はあまり打ち出されず、各放送局、新聞社から提供されるニュースソースもあるものの、独自の報道体制も充実させ、コーポレートイメージも独自のセンスをアピールしていました。
 OTVは相当に先鋭的なテレビだったようです。
 僅かに残った当時の記録などを見ると、放送は毎日昼夜二回、ジャズコンボの生演奏で開始されていたといいます。カメラがコンボのまわりをぐるぐる廻りながら撮るというスペクタクルな映像であったといいます。当時のテレビカメラは重量およそ五十キロ。車輪がついているとはいえ、それを、曲にあわせてブンブン振り回すという度胸に驚かされます。
 また、当時不可能とされていたヘリコプターからの実況を実現。
 四トンの資機材を担ぎあげて二度にわたって富士山頂から生中継を実施。
 一九五五年四月、シカゴの全米放送会議でアンペックス社が新型ビデオデッキを発表するやいなや、一挙に2台発注。到着後まずはこの新鋭機器をたった一週間で使いこなし、日本初のVTR制作による「一人二役同時出演」ドラマを制作しました。
 OTVは他局にさきがけ社内に独自のフィルム現像ラボを持ち、これをフル稼働させて、速報戦では常に勝利。取材陣の機動力との連携プレーを演じました。消防署とホットラインを設置し、時には「消防署より早くかけつける」こともあったといいます。また、燃えさかる家屋のベランダに取り残された猫の映像を放映して防火意識の高揚に貢献したとも言われています。
 のちに朝日放送や毎日放送が引き継ぐこととなる大阪発コメディ番組の原型はOTVが作りました。日本一の長寿ドラマ「部長刑事」も、放送開始時はOTVの制作。同じく長寿料理番組「料理手帖」もOTVのヒット番組で、他局にさきがけてテキスト出版とのメディアミックスを行いました。
 開局後は、当時東京で放送を開始していたNTV・KRTの2局とクロスネット契約を結び、これにより、両社のいい番組だけをチョイスして放送できる体制もえられました。また同時にOTV制作の番組がこの2局から放送されるようにもなり、大阪で制作されたテレビ番組がストレートに東京のお茶の間に飛び込んでゆくようになったのです。
 OTVはデザインセンスでもずば抜けていました。OTVの社章は通称「猫の目」と呼ばれました。これは、一般公募で集められた七千八百点の中から選ばれたもので、OTVの3文字を幾何学的にミックスしたものですが、それがたまたま猫の目のように見えたところから、どのロゴを組み込んだマスコットキャラクターを開発。テストパターンなどに利用していました。この社章からは数多くのバリエーションが生み出された、と記述されています。
 局舎は黄色と黒で彩色され、その屋上の塔屋には真っ赤な「猫の目」が、堂島界隈を闊歩する若いサラリーマンを見下ろしていたと言われています。カラー放送の準備も進められていました。
 このように、OTVの姿勢は「東京に追いつけ追い越せ」ではありませんでした。開局の順番こそ東京2局より後になりましたが、その分より新しい機材を揃えました。また、先行局の限界点を冷静に見つめながら、新技術の開発や独自の番組制作ノウハウをすすめ、テレビの可能性を大きく拓いた事は事実です。
 一九五九年、OTVは朝日放送に吸収されました。もう一方の母体であった新日本放送は毎日放送と改称して独自にテレビを開局、こうしてOTVという「過渡的な共同運営の時代」は実質足かけ四年間で終了しました。
   さて、OTVのコールサインは何だったでしょうか。テレビ単営の民放局のコールサインは日本テレビのJOAX-TVを筆頭に、JOBX-TVが大阪テレビ、JOCX-TVがフジテレビ、JODX-TVが関西テレビ、JOEX-TVが日本教育テレビ(現・テレビ朝日)・・・といった具合にABCの順につけられました。しかし、一九五九年以降、JOBX-TVは永らく欠番になっていたのです。この「欠番」こそ、永らくOTVの存在証明でした。しかし、平成に入って新しく開局した大分朝日放送にJOBXが交付され、欠番ではなくなりました。略称のOTVも、大阪テレビ閉局後すぐに沖縄テレビ放送が使用開始しています。
 当時を語る印刷資料はあまりに少なく、古書店でもまず発見されることがありません。OTVと合併し、かつテレビ事業の継承者であるABC朝日放送にも当時の資料はほとんどないそうで、ABCの社史で紹介されている程度のようです。数少ない資料はOTV報道部のOBが自費出版した文集や、ABCからOTVに出向していた澤田隆治さんが雑誌に掲載したレポートがある程度。広告主向けのパンフレットや広報誌の類はほとんど見あたりません。
 大阪の映像文化の原点の一つである「大阪テレビ」の記憶が、まもなく、静かに消え去ろうとしています。多くの印刷資料等は、朝日放送テレビが堂島から大淀に移転した際、ほとんど全て捨てられた、という証言があります。また、当時の記録写真にカラー写真がほとんど見あたらないため、話題になった局舎の彩色に関する話も具体的にはわからない状況です。現在存命中のOTV関係者は、朝日放送・新日本放送(毎日放送)からの出向者を含めて高齢になっており、特に、OTVの入社試験を通過して入ってきた純正の局員の数はひとケタ台にまで減っているという話があります。これらの人々が持っている未だ語られぬエピソードや重要な記憶はどれほどのものになるでしょう。
 このままでいいのでしょうか。大阪の映像文化の根っこが消えてしまうのを黙って見ていていいのでしょうか。もしここで何もしなければ、大阪の映像文化の一角が完全に根無し草となります。
 大阪には在京局にない、ハイブラウで独特の映像センスがあったようです。世界が注目した技術があったそうです。大阪ならではの映像の名人もいたそうです。開局時の平均年齢は25.5歳。どう考えても若い実験的意欲にあふれた人々の集まりであったとしか思えません。また、開局の際に呼ばれた舞台制作の経験者も、当時一流の映画会社・劇場だけでなく、占領時代の最先端であったアーニーパイルの演出家がいたり、相当に華やかなラインナップであったといわれています。

 このような素晴らしいものを、このまま散逸させては惜しいと思い、次のプロジェクトを提案します。

 ●「OTV記録保存会(仮称)」の設立

 ●存命するOTV関係者へのインタビュー実施
 ●できるだけ多くのOTV社員の趣味やパーソナリティの調査
 ●OTV関係の映像資料(写真、フィルム、VTR)の捜索と所在登録
 ●OTV内外の人脈連関図の作成(少なくとも局外2親等程度まで)
 ●OTVに関する新聞記事、雑誌記事、広告などの収集
 ●OTVが発行した印刷物の捜索、登録、収集
 ●OTVが放送した全コンテンツ(CM、技術試験、局報も含む)の記録
 ●OTV関係のグッズ、ノベルティ類の捜索、登録、収集
 ●OTVで使用されたあらゆる機器類、什器類の捜索、登録、収集

 ●上記資料をもとにしたOTV全史の編纂
 ●上記資料をもとにした記録集の作成(印刷物、CD-ROM、DVD等)と頒布
   =>記録集作成に至る段階で、雑誌特集への企画持ち込みなどもおこなう。
 ●堂島局舎、テストパターン等IDカード、街頭テレビ、バッヂ等レプリカ作成

 ●記念展示イベントの実施
 ●記念資料室の開設